松寿仙の製造をおこなっている和漢薬研究所は、群馬県赤城山の山麓にあります。
赤城山は榛名山(はるなさん)、妙義山(みょうぎさん)と共に上毛三山として古くから県民の愛着と信仰の対象となっており、日本百名山や日本百景にも数えられています。赤城山の最高峰である黒檜山(くろびさん)1,828m、駒ケ岳1,685mの他、地蔵岳、鍋割山、荒山、鈴ヶ岳などの溶岩ドームが中央カルデラ湖である大沼を取り囲み、更に大沼に隣接した覚満淵(かくまんぶち)や火口湖の小沼など、変化に富んだ見どころの多い山でもあります。和漢薬研究所からは鍋を伏せたような威容を誇る鍋割山を間近に見ることが出来ます。
群馬県の歴史・文化・風物を詠んだ上毛カルタに「裾野は長し赤城山」とあります。赤城山の裾野は高原台地となっており裾野の長さは富士山についで二番目の長さとなっています。冬になるとその裾野を関東平野に向け「空っ風(からっかぜ)」と呼ばれる赤城颪(あかぎおろし)が吹き抜け、群馬の冬の風物詩となっています。
赤城山といえば侠客、国定忠次が有名です。明治・大正・昭和の初期にかけて講談・浪曲・新国劇や大衆演劇の題材として取り上げられ「赤城の山も今宵かぎり、生まれ故郷の国定村や、縄張りを捨て、くにをすて、可愛い子分のてめえ達とも別れ別れになるかどでだ」の台詞によって赤城山を一躍有名にしました。さらに東海林太郎の昭和9年のヒット作「赤城の子守唄」(泣くなよしよし、ねんねしな・・)や「名月赤城山」(男ごころに男が惚れて意気がとけ合う赤城山・・)は赤城山と国定忠次の名を不動のものとしました。国定忠次は前出の上毛カルタにも詠まれる候補となっていましたがカルタがつくられた当時、第二次大戦後のGHQによって小栗忠順や高山彦九郎と共にその思想や犯罪が問題視され不採用になっています。
「雷(らい)と空っ風、義理人情」この上毛カルタ【ら】の札の「義理人情」には採用したくても出来なかった人物を何とか表現したいとの当時の製作者の思いが込められているのかも知れません。